4月16日

前震は、2016年4月14日21時26分。

当時 私は熊本市東区在住で、その時は隣の中央区にあるスポーツジムのシャワーブースにいました。

居合わせた方々と「地震?どこで?」という会話をしたほど

何が起きたのか解りませんでした。震度7を、脳が処理できなかった。

その晩は怖くて建物の中におられず、車で寝る。

翌15日(金)、当時の職場で「これで終わりかは分からない」と話したことを覚えています。

夜は、前夜ろくに眠れなかったため悩んだ末に家の中で寝ることに。

スニーカーを履いたまま、家の鍵とスマホをポシェットに入れ、それを身に着けて横になる。

2016年4月16日01時26分に本震発生。

緊急地震速報は、揺れより少し遅く鳴り始めました。

直下すぎて間に合わなかったんだと思います。長く揺れ、その間は何もできない。

近くに住む同僚の一家と合流。深夜の屋外は寒く、4月の九州なのにダウンジャケット。

震度5以上の余震は、地面が波打つ様子が見てわかります。

16日晩から大雨の予報だったため、同僚の二家族とともに一旦九州を出ることに決め、

車で下関のホテルに向かいました。

続く大きな余震に加え大雨となれば、子どもたちを連れての避難は困難だろうということと

大人の自分たちも、一旦落ち着きたかったから。

どの道が通行可能か、どこなら今でも制限なく給油できるかを調べてから出発。大渋滞。

下関も余震で揺れるが震度は低い。一泊。

皆と別れて、私はそのまま車で沼津まで行くことに。

各地からの緊急援助車両とすれ違うと、悲しくて涙が出ました。私だけが遠くへ逃げる。

できるなら被災した全員を連れて、熊本から出たかった。

しばらく東京本社へ出社し、東京から九州支店の業務と被災支援にあたる。

会社より「御見舞金を出すので九州支店で表書きしてもらうように」との指示。

怒りが湧いて、私が全て書いて送る。直後の被災地にそんなことさせるわけにいかない。

感度の差は、しかたがないし責められない。度々起こるこういうことが、心にきつかった。

農繁期に皆で作業するような地域に住む社員は

「周囲の目があるので」という理由で、会社からの支援物資を受け取らなかった。

「子どもが私から離れようとしない」という理由で、なかなか出社できない人もいた。

マンションの退去と諸手続きのため、7月に熊本へ戻る。

ブルーシートをかけた家がまだかなりあったし、災害ゴミの受付も継続中。

様々な感情の渦の中にいて、地震後の記憶は曖昧です。

新幹線。こだま停車中に のぞみ に追い抜かれる時の

凄い速さで近づいてきてグワンと回されかけるような揺れ方が、本震に似ている。

前震の直後、益城に住んでいた同僚が電話をくれました。心細かったから嬉しかった。

「亜子さん大丈夫?一人だと心細いでしょ」ありがとう、そちらは?すごく揺れたよね?

「家族は無事だけど、家はもうダメ。住まれないよ」

益城は震源地です。状況は私の比じゃなかった。

本震が来るのは まだこのあと。一生忘れられないと思う。

気遣いながら私と話をしてくれたことが、彼女自身の不安解消にもなっていたのであれば。

だとすれば、救われます。

営業二課 武田